罰則条項 透明な板を間に挟んだ面会でも、兄の様子に変化は無い。 現実と隔てられた空間だから余計にだろうか、一瞬ふたりの間に何も起こってはいないような錯覚を覚えて、響也は苦笑した。どれだけの変化が我が身に訪れたのかを思い出しただけでも疲れがきそうだというのに。 揺らいだ心を落ち着けようと、指先に前髪を絡めて俯く。斜め下に落ちた視線は、兄の顔を半分だけ捕らえていた。 「どうかしましたか?」 口端に笑みを引っ掛けて、霧人はそう問い掛けた。ふるりと首を横に振ってから『何でもない』と告げて顔を上げる。 「兄貴は、どう?」 「馴れました。」 にこりと変わらぬ笑顔で、眼鏡を押し上げた。整った服装も、違わぬ笑みも。響也から現実を喪失させる。 「そう…良かったね。」 「良かったは傑作ですよ、響也。」 兄の言葉に、ハッと口元を抑える。取り繕うように見上げた兄の瞳は、しかし微かに細められただけだった。今、兄が自分をどうこう出来る立場ではないと、頭の片隅でわかっていながらもその怒りを恐いと感じる。そうして、謝罪の言葉を続けてしまうのも、兄の不興を買いそうで口籠もった。 「…この間、成歩堂さんと逢ったよ。近頃、よく逢う…かな」 そう口に出して、話題の持っていき方として選択肢を間違えたかと様子を伺えば、霧人はふと薄い唇を引き結んだ。それが溜息だと気が付いて、響也は霧人を見つめたまま、瞬く。 「此処にも来ますよ。」 「本当に?!」 バンと机に勢いよく手をついて腰を上げた。足に当たった椅子は低い音を立てて床を擦る。自分を陥れ、七年間も親友顔をして横にいた男に逢いにくる。そんな所業など響也には信じられなかった。無神経も甚だしいのではないだろうか。 吃驚したと顔に書いてある子供のような弟の顔を見て、霧人は呆れたように言葉を続けた。 「そんな事で、嘘はつきませんよ。こうして顔をつき合わせては、娘の自慢や事務所の危機について話などして帰っていきます。まるで…。」 そこまで言葉を紡いでから、霧人は口元を指で覆った。綺麗に切り揃えられた爪には変わらぬマニキュアの光沢に響也は見開いていた眼を引き戻す。 その続きは、兄の口からでる事など無かったが、容易に推測できた。 まるで、何も無かったように。…そう兄は言いたかったはずだ。 「優しさのつもりなんでしょうか。ああ、違いますね、素でしょう、あれは。あの図太さには恐れ入りますよ。」 「兄貴は嫌いだって、言われなかったの?」 然したる感慨もない兄に、響也は問い掛けてみた。あの男の口から出た、自分に衝撃を与えた言葉を。 一瞬、霧人は響也の顔を凝視して、にこりと笑う。 「好きでもないのに、嫌いという言葉を使うはずがないでしょう。どうでもいい人間に、かける言葉など持っている男ではありませんよ。私に逢いに来るのも、暇つぶしと習慣でしょうね。私の自由が利かないのがわかっていて、迷惑な話です。」 気にならないと告げた成歩堂の言葉を反芻して、響也はただ兄の顔を見つめた。 冗談や嫌味を告げられた訳でもなく本当に気にならない性格の男なのだと、改めてそう告げられた気がした。 自分に優しくしてくれるのも、あの男にとって呼吸をするのを同じ程度だと、響也は改めて思った。その神経構造については、変わらず理解の範疇は超えていているけれど、成歩堂龍一とはそういう人間なのだ。 そう、成歩堂の行動に自分は特別な感情を抱く必要などないのだと、響也は初めて気が付いた。その結論が、酷く不思議に感じられたものだから、響也は再びすとんと椅子に座ってしまう。 カツンと音がして顔を上げれば、兄の指が硝子に押し付けられた音だった。近付いた顔は、牢獄に住まう憔悴感など感じさせない。響也の見知った、綺麗で自信に満ちて事件が発覚する前の兄と、変わらない。 「響也。貴方は優しい子です。今、辛いのではないですか? 随分と痩せたように見えますよ。」 「うん、色々あったからでも、平気だよ。」 心配そうに眉を寄せ、優しく話し掛けてくる。 「どうしても眠れないようだったら、貴方の部屋に置いてある私の睡眠導入剤を使っても構いませんよ。睡眠を怠ると身体がまいってしまいますからね。 でも、はじめて使用するのなら一錠程度で充分。適量を持って初めて薬効を発揮するものですからね。」 「ありがとう、兄貴。」 「どういたしまして、迷惑をかけてしまいましたからね。貴方は健やかでいて欲しいのですよ。大切な、弟ですから。」 にこりと微笑み、そして霧人は続けた。 「それと、もしもあの男に嫌いだと言われたのなら、逢うのはやめなさい。嫌われている相手との時間など、無駄なだけでしょう?」 「うん、忠告ありがとう兄貴。」 会話が終わるのを待ってでもいたように、看守が時間を告げる。今度こそ完全に立ち上がり響也は兄にひらと手を振った。 硝子越しに、にこやかに兄が手を振る。こんな場所でさえなければ、それはお互いによく知った光景だったはずだ。 「成歩堂さん」 「やあ、君も来てたのか」 両手をパーカーのポケットに突っ込んでいる成歩堂は何か差し入れを持ってきた訳でもなさそうだ。響也の顔を見ればへらりと笑う。 「待ってろって言われてたから、誰かと思ったよ。」 そう口では言っているが、先客が響也だと恐らく想像は出来ていただろう。だからこそ、扉の前に陣取っていたはずだ。 響也は苦笑しながら、自分を眺める男に視線を返した。 「…兄貴がアンタを無視出来なかった理由がわかった気がした。」 へえと片方の眉を上げた成歩堂に、クスリと笑って答えを告げてやる。 「アンタ、気付くと視界に入ってる。」 「そうかい?」 はははと可笑しげに笑う成歩堂は、やはり意に介していないように思えて響也は諦めて肩の力を抜く。この男とのつき合いは肩肘を張っても疲れるだけだ。 「じゃあ、ね。」 「ああ、また。」 響也と入れ違いに扉へ滑り込んだ成歩堂のを見送って、苦笑した。 「またって…有り得ないよ、成歩堂さん。」 (また)財布代わりにお付き合い。きっとそうだろうと思いながら、成歩堂から告げられた再会の約束に少しだけ気持ちが浮き立つ。 「また、ね。」 閉じられた扉にそう告げて、響也は出口へと足を向けた。 content/ next |